マンションの歴史
福永です。
マンションの歴史を自分のメモがてら、ざっくりと書いてみました。
長文で拙文ですが、お許しください。
■旧三菱高島炭坑端島アパート(軍艦島) 1916年(大正5年)
三菱炭鉱の労働者とその家族のための20棟以上のRC造集合住宅群が建っていた。1916年に建設されたこれらの集合住宅群は当時としては先端技術を駆使した、日本最古のRC造集合住宅である。最盛期には5,300人を超える人々が暮らしていた。1974年炭鉱は閉山され、その後無人島となり、これらの住宅は朽ち果て廃墟となっていた
■名探偵・明智小五郎もモデルにした「開化アパート」 大正時代(1912年~1926年)
東京都千代田区采女町にRCの本格的なアパートメントハウス(共同住宅)
明智小五郎探偵事務所は2Fです。
■最初の・・
・中村第一共同住宅館 1923年(大正10年)・・最初の公共アパート 横浜市
・東京市営古石場住宅 1923年(大正12年)・・最初の東京市営アパート 東京市
■1923年(大正12年)・・関東大震災
死者58,000人、被災者1,334,000人・308,300世帯
■「お茶の水文化アパート」
1925年(大正14年)、RC地下一階、地上四階(のちに五階に増築)837坪
超高級マンション。開化アパートをモデルとしても関心を集めた。
賃料11円15銭/坪・・これを払える人は東京では2%。
■同潤会アパート
関東大震災後に発足した「財団法人同潤会」が東京・横浜に建設した鉄筋コンクリート造の集合住宅。当初の目標は2000戸だったが大きく上回った。その活動は18年間。1941年(昭和16年)に住宅営団となり、戦後の日本住宅公団(現:都市基盤整備公団)となる。6畳と4畳半の二室の家賃は月に15円。下層サラリーマンの初任給は25円。戦後すぐに払い下げられ、高級賃貸アパートから区分所有マンションに切り替わった。
・1925年(大正14年)
青山アパート、中の郷アパート、柳島アパート、代官山アパート、清砂通り(清洲橋通り)アパート、山下町アパート
・1926年(昭和元年)
住利共同住宅、平沼町アパート
・1927年(昭和2年)
三田アパート、三輪アパート
・1928年(昭和3年)
鴬谷アパート、上野下アパート
・1929年(昭和4年)
虎ノ門アパート
日暮里(鶯谷)アパート
・1930年(昭和5年)
大塚女子アパート
東町アパート
・1932年(昭和7年)
江戸川アパート
■第二次世界大戦 1939年~1945年(昭和14年~昭和20年)
■宮益坂アパート 1953年(昭和28年)
日本初の分譲マンション(東京都が分譲)
地上11階、地下1階、126戸、分譲価格60万円~100万円
■三鷹牟礼団地 1956年(昭和31年)
「DKプラン」導入。 食寝分離のはじまり。
■初の民間分譲マンション
・第一生命住宅が分譲「武蔵小杉アパートメンツ」1955年(昭和30年)
社宅ブームの延長線上にあり、9棟のうち8棟は一般分譲を行わず、1棟ずつ社宅として各企業に分譲している。
・日本信販が分譲「四谷コーポラス」1956年(昭和31年)
完全に個人向け。このマンションが民間分譲マンション第一号と言われている。5階建てで戸数は28戸。メゾネットタイプもあり。施工は佐藤工業。
この時に革新的だったのは販売に際して月賦の支払いを組んだ事。住宅金融公庫はあったが分譲マンションに対する融資はなく、民間金融機関の住宅ローンは当然なかった。
月賦の方法は頭金を含め最初に1/3を支払い、残りを10年で返す。年利15%で元利均等方式。購入者の大半が利用した。ちなみにこのときの担当者は、この経験を生かして日本信販ローンを作った。
・「東急スカイライン」1957年(昭和32年) 民間初の高層マンション。地上9階地下1階。
■第1回 宅地建物取引主任者試験 1958年12月24日(昭和33年)
当時は「宅地建物取引員」試験 30問で持込可でした。現在は50問で持込は不可。
合格率93%。翌年は98%。現在は15%前後。
■区分所有法(現:建物の区分所有者等に関する法律)施行1963年(昭和38年)制定は前年。
■メゾン西宮 1963年(昭和38年)
関西で第一号分譲マンション。長谷川コーポレーション。7階建総戸数は35戸。価格は600万~870万。専有面積65平米~126平米でメゾネットタイプとフラットタイプがあった。エレベーターは特定の階だけに停まる、スキップフロア方式。一階には専用庭。分譲価格は現在のマンションのように各階ごとに条件に応じて設定。
モデルルームを仮設。管理組合に加入しないと買えない。
住宅ローンを斡旋(提携ローン:住友銀行)・・15年返済で金利は市中金利よりも高めで、ボーナス返済やステップ償還もできる。住宅価格の6割までが基本だが8割まで貸すケースもあった。現在の住宅ローンの礎になったといっても過言ではない。
■第一次マンションブーム 1963年~64年(昭和38年~39年)
高度経済成長真っ盛りで、1964年の東京オリンピックに向けて建設ラッシュに沸いていた。
「秀和レジデンス」を抜きには語れない。分譲を手掛けたのは1962年(昭和37年)からで上流階級を対象にホテル感覚の超高級デラックスに徹した。
立地は都心でも一等地で地位(じぐらい)の高い、青山・麻布・赤坂(3A:スリーエーとよばれた)
その装備と豪華さは大正期のお茶の水文化アパートを彷彿させる。ちなみに、1963年(昭和38年)に着工した秀和青山レジデンスのキャッチフレーズは「お医者様からホームヘルパーまで」マンション内にホームドクターが常駐し、24時間診療が受けられるようにする一方で、共用のホームヘルパー(お手伝いさん)を配属して、申込制でベビーシッターなどを頼めるようにもした。この物件はテレビコマーシャルを使って販売キャンペーンを展開した点でも注目された。東京オリンピックによってカラーテレビが急激に普及した時代。
■東京コープ販売KKの「コープ・オリンピア」と「ブロードウェイ・センター」1965年(昭和40年)
・コープオリンピアは、東京オリンピックにちなんでネーミングされた。JR原宿駅前の表参道に面して完成。店舗・レストラン・喫茶店・ランドリー・集会室が設けられ建物が一つの都市機能を有するように企画されている。延べ床面積26,000平米、8階建て161戸。分譲価格が1億円の住戸もあったがとにかく売れた。
・ブロードウェイ・センターはJR中野駅近くにあり、延べ床面積71,600平米、4階までが店舗、5~10階が住居(約250戸)、屋上には庭園、プールあり。
■マンション暗黒時代 1965年(昭和40年)
昭和40年は暗黒時代と言われていて、大量に売れ残りが出て、夜逃げしたりする会社もあった。「土地に執着心が強い農耕民族の日本の風土にやはりマンションはなじまない」とまで言われた。
■西荻フラワーマンション 1965年(昭和40年)
これまでのマンションは会社役員や芸能人など特殊な階層を対象とし供給立地も大都市のごく一部に限られていた。これに対して、長谷部建設は東京・杉並区西荻北に「西荻フラワーマンション」を分譲する。6階建て、24戸で355万~375万。間取りは2DK、44.5平米~46.2平米。
これはすぐに売切れ、条件がそろえば一般サラリーマンでも購入できるようなマンションの需要者になり得ることを証明した。
とりあえずここから、マンションというものが一般的になっていったような感じですかね。
この中に登場していて、現存してるマンションをこれから観に行ってこようかな。
なんかテンションあがってきた!
是非フォローしてください
最新の情報をお伝えします