博物館明治村訪問記-帝国ホテル中央玄関
そろそろ年の瀬ですね。
先日、明治村に行ってきました。ずっと行きたいと思っていただけに、久しぶりにワクワクする小旅行。東京からは、新幹線で名古屋まで行き、そこから名鉄バスで明治村まで1時間半。とにかく長いバス旅でした。
火曜日の朝9時台のバスでしたが、お年寄りの団体もいてバスは満席。土日はきっと混んでいるでしょうし、これで1時間半立ちっぱなしはキツイなーなんていらない想像しながら、山道をごとごと。
途中、人生フルーツの舞台、高蔵寺ニュータウンのそばを通るので、人生フルーツを3回も観に行った専務の福永は大興奮。1回も観ていない私は、勧められてから10回目くらいの「そういえば観に行かなきゃいけませんね。」
来期の会社の話や、投資の話など、まじめな会話もしながら、やっとこさ明治村に到着。
※乗り換えなしだしという理由でバスで行きましたが、名鉄犬山線で犬山駅まで行き、そこからバスという手段だと電車で30分バス30分の1時間で行けるので、こっちの方が断然お勧めです。
今回のお目当ては、フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル中央玄関。
好きなものは先に食べる派の私は、明治村の正門として新たな役割を持った旧「第八高等学校正門」(登録有形文化財)をくぐり、レトロなバスで真っ先に向かいます。
ちょ~~~感動!感動が伝わりにくい拙い表現ですが、ほんとにマジでちょ~~感動でした。
ポルトコシェ(車寄せ)
落成記念披露宴の当日に発生した関東大震災でも倒壊せず、ライトの自作自演との疑惑もありますが、大倉男爵の電報の話も有名ですね。
1919年(大正8年)に着工し、紆余曲折ありながら、1923年(大正12年)に竣工。関東大震災や東京大空襲に耐え、GHQに接収され、1968年(昭和43年)の解体まで、激動の歴史を彩ってきた玄関です。
解体については、多くの反対運動がおこったようですが、解体の年(昭和43年)に出版した鹿島研究所出版会の本にある、内藤多仲博士(当時80歳)の調査後のお話によると、「不同沈下が相当にあり廊下は波を打ち建物の長手方向では中央部1.3メートルも沈下している所があった。また構造の局部的垂れ下がりを防ぐための支柱を立てたり、したがって相当亀裂の生じているところもあり、素人の人には危惧の感を起すかと思われる位である。」とあります。
270室という客室数の少なさと、地盤の弱さからくる建物の劣化の影響も大きかったようです。現存していたら圧倒的な存在感で、町の雰囲気に大きく寄与していただろうと思うと、やはり残念ですね。
フロントです。
ロビー。
当時の喫煙率を考えると、大谷石も天井も黄ばんでいたのでしょうか?なんて夢の無い想像もしてみたりして。
左上より時計回りに、象徴的な大谷石の壺、紳士用ラウンジ、ブリッジの一隅、ロビーの吹き抜け。
市松模様の窓。
2004年(平成16年)に建築資料研究社が発行した、「フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル」には、解体前の写真、解体中の写真、解体が決まってからの調査についての詳細、実測図面が掲載してあり、とても参考になります。
これには、著者であり実測に携わった建築家・明石信道氏の、1967年(昭和42年)5月25日に調査の承諾を得てからら、調査終了までの日記もあり、解体工事中の電気の通っていない中、懐中電灯を頼りにスケッチしたことや、留年してまで調査に没頭した学生のことなど、多くのエピソードが記されています。
保存に尽力した方々のお陰で、こうして僕らは実物を目にすることができるのですね。建物、着物、書物は、時間を超越した何かをもたらしてくれるように思います。
ところで、明石信道氏は函館に生まれ、棒二森屋の設計をした方でもあるそうです。私にとっては、いろいろと縁を感じる今回のブログでした。
土地と建物の一体化をコンセプトとしたライトの建物ですが、地所から切り離され、用途も変わってしまいましたが、当時を生きていない私にとっては、圧倒的な存在感をみせてくれました。
明治村についてのブログとして書き始めたら、帝国ホテルだけで長くなってしまったので、他の建物については、後日改めて。
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